風の起こし方

はるか昔に滅んだ「労り一族」の子孫 『労り人 久巫こ』 のブログ

預金残高30万の私が、五千坪の山林を購入することができた、いきさつ最終回【全8話】①

最終回①②③④⑤⑥⑦

 2023年3月末。

 パソコンのブラウザが反応しなくなりました。8年目にして遂に寿命が尽きたのです。富士通のオペレーターさんも、Windows7から11までアップグレードして使用できていたことがこのパソコンでは奇跡、と驚かれほどの長寿でした。このパソコンの買い替えが、物事が動き始める合図でした。

 お彼岸が終わってから4月の集落は、5月の田植えに向けて活気づいてきます。集落のお百姓さんは田植えが始まるまでに草刈りを済ませておく、これがあうんの作法でした。集落の景色が枯草の黄金色から若葉の緑へとゆっくりと変わってゆきます。春を喜ぶ幸せのひと時は突如として終わります。目が覚めたら集落の田んぼの畔が、焼けただれた黄土色に変わっているのです。

 帰郷してから私にとっての春の訪れは、カルトに洗脳された「生産者」という名の工作員による草56し撒布オペレーションから身を守る、生きた心地のしない季節の到来でもありました。

 集落のあちこちで背中にタンクを背負った工作員(失礼、生産者さん)が、シャーシャーと草56しを撒き始めます。私は散布された土同様、苦しみ、外出ができず、大変な被害を被ります。
 私が子供のころに育った親族の農地におじが隅々まで草56しを撒き始めて5年目の春。私はこんな苦しい思いをしてまでこの土地に住み続けることに、全てを投げ出したい気持ちと向き合っていました。

 子供のころふかふかの草むらにたんぽぽがびっしりと生い茂った大好きだったお気に入りの小さな坂道。草56しによって表面のふかふかの土が死に、カチカチののっぺらぼうの道に変わりました。おうれん、という抗がん作用のある薬草は死滅し、二度と生えてきません。もはや天然記念物と言ってもいい野生の桃。日本の桃の原種で、小ぶりながら味が濃く甘みと酸味が強い、生命力の塊のような幻の原木。その野生の桃の樹の周辺にまでも草56しが撒かれるようになりました。人類にとって貴重な財産、この原木を守ることは不可能となったのです。

 おじは言いました。「これが今の農業じゃ。」私は、グリホサートが世界中で禁止され始めていること、米国で訴訟が一万件以上に上ること、世界の潮流に逆行し、日本だけが農薬の安全基準が最大400倍も緩和されたことなど手短に話して、辞めてほしい、と頼みました。しかし、「カラダに悪いもん、売るわけないがな。」と一顧だにされませんでした。地主のいとこがおじに管理を一任しているのですが、いとこが草56しを撒いてもかまわないと許しているため、おじは地主のいとこに言え!と取り合ってくれませんでした。いとこに訴えましたが、草56しを撒かなければおじのカラダの負担が大きくなるのでそれは言えないという応え。

 この一連のやり取りは日本全国の集落の津々浦々でおこっているに違いないと私は見ています。いとこの言うような高齢者のカラダの負担を軽くするために除草剤の使用は致し方ない、という考えが、今の日本の主流のコンセンサスになっています。これはつまり、除草剤を使うことの方が、使わないことよりも優位にある、ということです。これがどのような結末をもたらすのか。美しい田園風景の喪失、薬草の絶滅、天然記念物、桃の原種の絶滅、・・人間の健康だけでなく、文化、自然環境への影響は計り知れません。なぜ国民はそう判断したのか。情報が統制されているからです。

 この国ではグローバルバイテク企業のアジェンダ(実現目標)に異を唱える情報は、流れない、流せない、流さないしくみが出来上がっているのです。
 戦後、GHQの占領政策でもっとも重要だったのは日本人の民族意識の解体です。これは今もジャパンハンドラーズ(外国勢力による日本内政操作)によって継続されています。

 日本民族民族意識の源流は農村にありました。百姓らの驚くべき技術力と神への信仰心が日本民族の強さの原動力と分析した彼らは、二度と牙をむくことがないよう、農村に異教を広めてゆきました。異教とは何か。近代科学宗教です。

 太古の昔から日本民族は神様とともに農を営んできました。大地は神様の御神体です。その大地に草56しを撒くことを体制(カルト)が強要したのです。その結果どうなったか。百姓の精神が蹂躙され、骨向きにされてしまいました。

 このようにして農村に異教が広まり、百姓は生産者となり、カルトのアジェンダの手駒、工作員となったのです。カルトのアジェンダとは何か。農の支配、食の支配、人類の支配です。農村の美しい田園風景であるとか、人類を救う薬草であるとか、日本の原種である野生の桃であるとか、そんなことはどうでもいいことなのです。



 私は野生の桃の樹を少し上った山中にある祠(ほこら)を思いました。曾祖父の時代、大東亜戦争の前の時代に近隣に住む長老らによって建てられた小さな祠です。昔から集落の人々は、死んだ人の霊は山に眠ると信じられていました。祠を建てて、山に眠るご先祖の霊と、土地の神様を祀(まつ)ったのです。私が子供のころ、祖父母が生きていた時代(祖父は昭和60年没80歳)までは甘酒祭りといって、その年の当番の家が甘酒の種(たね)をつくり皆が祠に集まって火を熾(おこ)し、甘酒をつくります。大きな羽釜(はがま)に甘酒のたねを煎り、水を入れてくつくつを煮立たせるのが昔ながらのつくり方です。砂糖は入れません。たねのおこげが香ばしさとほろ苦さを醸し出し、濃厚な味わいとなります。大人も子供も火を囲み、甘酒をたっぷり飲んで、カラダの芯から温まります。



 集落に異教が入り、お年寄りの昔話を迷信と疑うようになったころ、甘酒祭りはしだいに風化してゆきました。甘酒祭りが風化した本当の理由は何か。それは、集落の人々がコーヒーを飲むようになったからでも、ファンタやコーラの方がおいしいと思うようになったからでも、自家製の甘酒を作らないようになったからでもありません。異教によって、先祖からの口伝によって守られてきた伝統を時代遅れ、恥ずかしい、と思うようになったからです。

 信念体系が変わったということです。甘酒祭りの風化とともに、祠を祀ってきた人々は死に絶え、子や孫が引き継ぐことはありませんでした。

 

最終回②へつづく