その日の朝、夜明け前に目が覚めた私は、窓から何か神々しい光が差し込んでいることに驚いた。カーテンを開けると、東の空が生まれてこの方観たこともないような美しいオレンジ色に染まっていた。
!!
慌ててスマホを握りしめ、玄関を飛び出した私は、視界一杯に広がる眩いばかりの光に息をのんだ。
朝日が地平線から現れ、しだいに高く、雲の層に隠れるまでの暫くの時間、私は何十回もシャッターボタンを押し続けた。
■「天の導き」
一か月間もの間、私は休みなく実家の片づけを行った。
「開かずの間」だった物置から、弟の喫煙部屋となっていた奥の作業場まで、今回は実家の『中枢』と言われる部分にまで、断行することができた。
それは最初から私が「計画」していたわけではなかった。
全くもって「天の導き」がなければ、ここまで大胆な片づけ行うことはできなかった。
毎日毎日、トンネルを掘っていくような手探りの作業で、決して私の一存で強行できるものでもなかった。
それが、一人暮らしの「断捨離」と、家族と住む共同生活の場での「片づけ」との違いだ。
■覚悟
私は、”虎穴に入らざれば虎子を得ず”という覚悟で臨んでいた。
願いを現実にしていくためには、粘り強く何度でも、時間をかけて取り組んでいくつもりでいた。
片づけさせてもらえるかどうかもわからなかった。
何が何でも自分の思い通りに進めようとしたら、途端に家族に心を閉ざされてしまう。
そして、収拾のつかない抵抗に敗北する。
過去に何度もそんなことを繰り返していた。
■片づけに必要なのは「きめ細やかな感性」と「思いやり」
「片づけ」ということに、もっと”きめ細やかな感性”と”思いやり”が必要であるということを、私は体験から学んだ。
家事をやりやすくする。
探し物をしやすくする。
この二つが今回の片づけの大きなテーマだった。
片づいた住まいは、そこに住む人びとの心も整えてくれる。
私はそう信じていた。
■片づいた後に「本当の夢」を語る
「片づいた住まい」 の心地よさを感じてもらえた後に、「本当の私の夢」を語ろう。
今はまだ早い。
拒絶反応を起こされて、私がこの家に戻ることさえ拒まれてしまったら・・・
私の夢は立ち消えてしまう・・
私は慎重にものごとを進めて行こうと思った。
■片づけは「夢の現実化」という基礎工事である
「家族のための片づけ」という表向きの理由の裏側で、「夢の現実化」という基礎工事を同時進行で進めていく。
気づかれないように、用意周到に、私は片づけを進めていった。
戦国時代の武将のように、私の気持ちは引き締まっていた。
■片づけはブレると「骨抜き」になる
「片づけ」には流れがある。
そして、それは囲碁や将棋のような「戦略」も必要となってくる。
何もそんな大袈裟な・・・と思われるかもしれない。
集中して一気に「片づけ」てしまわなければ、決心に”ブレ”や”歪み”といった”隙”が生まれ、結果が「骨抜き」になってしまう。
つまり、「何を」、「どうしたらいいか」分からなくなってしまい、「構造的な片づけ」にまで至らないのだ。
■「イメージ画像」が与えられるまで待つ
私は全身全霊をもって取り組んだ。
すると、何ということだろう。
あれよあれよという間に、思った通りの片づけを行うことができたのだ。
その時々に、天から、「ひらめき」が与えられた。
その「場」をどういう「場」にするのか。
具体的な「イメージ画像」が与えられるまで、私は待った。
「ひらめき」を受け取ったら、私は果敢に行動に移した。
■見えない力のサポート
私のゆるぎない「片づけへの情熱」は、家族を引き込んでいった。
モノを動かすことも、ましてや「捨てる」ことも、断じて許してはくれなかった母も、今回はいつもと様子が違う。
母も心を決めたのだろう、黙々と手伝ってくれた。
それどころか二人で協力して手際よく、仕事をすることができた。
その母と私を眺めていた弟も、終いには自分の片づけを始めた。
私が提案した荷物の置き場も、煙草を吸う場所の相談も、了承してくれた。
重い荷物の移動も、文句も言わずに引き受けてくれた。
何が起こっているのか?
私は調子に乗らないように自制した。
最終的に、全体の片づけが終わるまで、気を抜かなかった。
私が意識した通りに物事が進んでいる・・・!
私は気づいていた。
あらゆる見えない力のサポートを受けていることを感じていた。
だから全力を注がなければならない、と思った。
なぜなら、「天の意志と私の意志が一致」しているからだ。
この「片づけ」を行った後に、私はやるべきことがあるし、またそれは宇宙も応援してくれている・・・。
私はそう、確信していた。
この「片づけ」は私にとって、”未来の扉”を開けるための大切な取り組みなのだ!
■長距離ランナー
長距離ランナーのような不屈の精神と忍耐力をもって、私はついに「片づけ」を完了させた。
もちろん完璧ではない。
不要なものもある程度は残した。
それでも家の中は見違えるように綺麗になった。
家事の導線がシンプルになり、効率よくなった。
探し物がしやすくなった。
光が差し込み、風が通り、家の中が明るくなった・・・!
■生き還った我が家
全身の血のめぐりが良くなって 健康を回復した人間のように、我が家は生き還った。
この家に住む私たちの心と体も、氣のめぐりが良くなって、運気も上がっていくに違いない。
私は眩いばかりの光を浴びながら、感無量の境地だった。
悲願の実家の片づけを、見事成し遂げることができたのだ。
私は大きな深呼吸をひとつした。
■40日目の朝
一か月におよぶ片づけが一段落した今朝、私にこのようなご褒美をくれるとは・・・
私は見事なまでの天の計らいに、胸をうたれた。
瞑想合宿を終えて、40日目の朝だった。
**過去記事**
宇宙船のお迎えは突然やってくる。着の身着のままで参加した「瞑想合宿」で起こった奇跡の連続と私が体験した出来事のすべて。① - 風の起こし方
■分からなかった「本当のおもしろさ」
なだらかな低い稜線に囲まれた、わずか40世帯ほどの小さな集落の入口に、私の実家はある。
子どものころ、あの山の向こうは外国だと思っていた。
人びとは、稲の成長と同じ時間の中で、暮らしていた。
18歳で家を出ようと思っていた時の私は、自然に囲まれた穏やかな暮らしの『本当のおもしろさ』をわからないでいた。
そればかりか、穏やかに暮らしを営む里山の人びとのことを、「村を出る勇気のない人」と見下していた。
■「終わりのない千本ノック」を終える
しかし宇宙の導き手は、根気よく私の傍らに居てくれた。
そして聴こえないほどの小さな声で、常に私に問い続けてくれた。
”本当にそれでいいのか?”
”本当に大切なことは何か?”
”本当にやることは何か?”
それは「終りのない千本ノック」のようなものだった。
私は泥まみれになりながら、右に左に飛び込んで、ボールをキャッチし続けた・・
私は光であり、土と、風と、草と、山々と、あらゆる生き物たちと、何らかわらない自然の一部だ。
「最も大切なこと」に気づくと、ノックは終わった。
私の目の前には『光の扉』があった。
その扉をゆっくりと開けると、眩いばかりの光が差し込んできて、
私は気がつくと、実家の前にたたずんでいた。
私は叫んだ。
なんだー、『アルケミスト』みたいじゃないかー!!
ここに「宝物」が眠っている。
まだ誰も気づいていない。
そして、その「宝物」を掘り当てるのは、『私』なんだ。
■「地球の労り人」になろう!
私の呼吸は深まった。
里山で暮らす人々は、「勇気のない人々」なんかじゃなかった。
この『美しい原風景』を守り続けてくれた、「地球の労り人」だった。
私は自分の愚かさを恥じた。
”降りてゆく生き方をしよう”
”この『里山の原風景』をどんなことがあっても守りたい!”
私は、光と、風と、土と、草と、山々の友となって、彼らの「スポークスマン」となろう!
私の胸に熱いものが込み上げた。
■果たせなかった夢
片付けは容易ではなかった。
2003年に私は、カメルーンのイサクさんと家庭生活を営むために、帰郷した。
当時の私は今以上に希望に満ち溢れていた。
イサクさんの故郷である、カメルーンの最北部のポリ村と、私の故郷、高山を「姉妹村」として結びたい。
それが私の夢だった。
■「遺産」
ポリ村の美しい雑穀畑と小さな共同体は、稲穂が輝くのどかな集落、高山と通ずるものがあった。
地球の果て通しの「縁」のある『繋がりに』、何か深いところから湧いてくる感動があった。
この『繋がりあう暮らしの営み』を私は、同族としてのすべての日本人に、見てもらいたかった。
それは、未来永劫、地球が残さなければならない『遺産』のようにも感じていた。
けれども、さまざまな事情が重なって、道半ばで断念せざるを得なかった。
その時に行った片づけが『第一章』だ。
■片づけ第一章
三か月かかった。
三日でも三週間でもない。
私が七歳の時に建てた二階建て木造住宅は、母の創意工夫によって横と裏に「物置のような離れ」が増設されていた。
家族はそれぞれが独立し、母がひとりで暮らしていた。
私は長きにわたって、実家を顧みることなく、自分の人生に没頭していた。
その間、実家はどんどん母の「居心地のいい方向」にカスタマイズされていく。
私が帰郷したとき、153cmの母の体を久の字に曲げて休めるだけの寝床を残し、それ以外がありとあらゆるモノで埋め尽くされていた。
私は途方に暮れた。
封を切っていない十数年前の調味料、
使わないのに買いそろえた、台所用品、
ねずみが散らかしていた乾物、
友達やご近所からいただいた食器の数々、
食べ切れずにそのまま放置してある漬物や酢漬け、
頂いた衣類の山、
押入れに入り切れず作り続けた布団、
、、
思いもよらないものが、思いもよらないところにあった。
それは、家の歴史を全て紐解くような、気の遠くなるような作業だった。
その時も全身全霊をもって取り組んだのを覚えている。
当然のごとく、母も「身を呈して」抵抗した。
私が不用品として外に出したものを、知らないうちに、こっそり家の中に入れた。
それをもう一度出す私。
そういったことを繰り返しながら、三か月の奮闘の末、遂に
片づけ「第一章」は終ったのだった。
自慢のスモモの樹の木陰にテーブルを置き、ハーブティーを飲みながら、お気に入りの本を読む。
日の当たる縁側に座布団を敷き詰めて、昼寝。
台所と居間を繋げて、広々としたリビングでソファに横たわる。
四方から差し込む光を浴びながら、料理する。
美しい田園と、里山の低い稜線を見通せる自分の部屋で、静かに瞑想する。
いつ帰省しても落ち着かなかった実家が、
居心地の良い住まいに驚くほどに変わった。
ようやく手に入れた、居心地のいい空間に、私は心の底から満足した。
それから暫くして、私は再び上京した。
七年後、見事なまでに、元に戻っていた。
■母の「幸せ」
『住まい』というのは、住む人を表す。
頭の中から、健康状態まで、「住まい」が多くを物語る。
戦争中の物のない時代。
八人兄弟の三女として、母は生まれた。
勉強ができないばかりに兄弟、とくに上の兄たちにいじめられてきた。
『自分を守るためには、人から馬鹿にされないように物をもたなければいけない』。
母がそう考えるようになったのも無理はない。
兄たちに物を貸しても、戻ってこなかったことから、『大切なものは自分の身の周りにおいておかなければ誰かに盗られてしまう。』
そんな心配を日頃からするようになった。
ちょっとした隙間、少し高いところ、テーブルの足元、
ありとあらゆる「何かおけそうな場所」に、
その時に思いついた感覚で、物を置いていく。
そして、いったん置いた場所は、そう簡単には思い出せなくなる・・
さらに、「物があることを自慢したい」という承認欲求が強くあった。
「物」をもつことで、社会に認められたい、という思いだ。
祖父母の世代までは、お葬式や結婚式は、自宅に親族や近所の人達を招き、共同で行事を執り行った。
その際、『お膳』に使う食器を互いに持ち寄るのだが、
行事のあと失くしたり、誰かの家でそのまま使われていたりして、悔しい思いをすることも多かったそうだ。
また、母は若くして未亡人になってしまったので、人一倍、「世間並」に物をそろえておくことにこだわった。
「世の中から甘く見られたくない」というプライドがあった。
新しいものを揃える余裕のなかった母は、親戚やご近所、友達や同僚、美容院の先生からまで、食器を頂いた。
遂には食器棚までも・・・
そういう訳で、我が家には食器棚が三つある。
もちろん、全て、頂き物だ。
気さくな性格も相まって、食器や古着がどんどん集まってきた。
母にとっては、そのどれもが、『思い出深い』ものであった。
人の縁や、友達を大切にするは母は、目を細めて、その「頂き物」にまつわるエピソードを語ってくれる。
それは、とても幸せそうな顔なのだった・・・
母にとって「物を捨てる」ことは、「幸せな思い出」を切り取ってしまうぐらい、悲しいことなのだ。
母の『思い』はわからないでもない。
でも、このままでは、家が機能しなくなる・・
■弟の苦悩
二年前に離婚して実家に戻っている弟は、部屋のカーテンを引いたまま、
昼間は寝続けるという生活を続けていた。
仕事を探しているが、見つからない。
光の見えない『闇』の中で、ひとり苦しんでいた。
実は、この「弟との関係性」の改善に、私は長い間こころを痛めてきた。
私たちは同じ家庭に育ちながらも、物事の受け止め方が、正反対だった。
私は、”あらゆる困難は学びであった”と、自らの人生を肯定的に受け止めている。
一方、弟は「家庭環境」や「生い立ち」に、『深い絶望』と『怒り』を抱えたまま人生を歩んできた。
■不器用な人生
弟は生後一年もたたないうちに、乳児院に預けられた。
小学生の時、親の財布からお金を盗む。
サッカーの試合に出させてもらえなかっただけで、大泣き。
中学生で学業についていけなくなり、高校受験に失敗。
滑り止め校に入学するも、半年足らずで退学した。
その後、悪い友達と夜昼逆転の生活が続き、
二十歳を過ぎて間もなく、警察に捕まった。
三十半ばにして結婚するものの、仕事は長続きせず、遂に、「闇の世界」へと身を落とす。
一時的に生活は潤ったが、そのころの弟の顔は、ひょうきん者でみんなを笑わせていた子供のころの明るさは見る影もなく、全く表情はなくなっていた。
目に精気はなく、なにか悪いものに憑りつかれているようだった。
義妹は、仕事内容よりも、より多くの給料を要求した。
弟は期待に応えるために、その”闇の仕事”をずっと続けた。
弟夫婦は待望の男の子を授かったが、夫婦は”闇のお金”で子供を育てた。
私はいたたまれなかったが、どうすることもできなかった。
やがて”闇の仕事”の収入がどんどん減っていった。
弟の知らないうちに、家庭では借金が膨らんだ・・・
夫婦は、お金のことで言い争いが絶えなくなっていく・・・
遂に離婚。
甥は、義妹に引き取られ、弟は実家に戻った。
当事者はもちろんのこと、彼らを取り巻く家族は悲しみに打ちひしがれた。
家庭が破たんすることほど、つらいことはない。
私は母と共に泣いた。
■弟は母の「主」
不思議なことに、母は弟が戻ってきたことを喜んだ。
母にとって弟は、たとえ「不良」であっても、『主(あるじ)』だった。
夫を亡くした母は、弟を夫の代わりとして仕えた。
失った「主」が戻ってきたことを、表向きは悲しんではいたものの、
潜在意識では喜んでいた、それが私にはわかった。
人間の「深いところの想念」というものは、常識では理解しがたいものがある。
母にも複雑な思いがあるのだということを私は感じざるを得なかった。
■人生の「限界」
そういう私も、「悲しみ」のより深いところに、「砂の城」が壊れたような清々しさを感じていた。
弟の人生に限界が訪れたのだ。
「破壊」は「再生」を意味する。
弟は「人生をやり直す」必要に迫られた。
”闇の仕事”を辞める、またとない機会だった。
私はその時をどれだけ待ち望んだことだろう。
その瞬間は不意に訪れた。
待ち望んだ応えが、弟の口から語られた。
”もう、わしにはできん。”
”闇の世界”にもIT化が進んでいた。
弟の能力には及ばない時代に入ったためだ。
”もうできんし、もうせん。”
「不良」といっても、田舎生まれの田舎育ち。
言動や行動がマイペースの弟には、とてもついていけない世の中になっていた・・・
■「破壊」は「不幸」ではない
私は、こころの底から安堵した。
「離婚」というのは、弟の「再生」には必要な出来事だった。
暗闇の中で家庭生活を営むよりも、たとえ壊れたとしても、生まれ変わった方がいい。
弟に起こった出来事は、けっして「不幸」な出来事ではなかった。
むしろ、彼の人生にとっては「幸い」なことだった。
私は弟の「再生」を見守ることにした。
■「社会復帰」
”闇の世界”からの「社会復帰」は容易ではなかった。
人目を避け、現実の苦しみから逃れるように、布団をかぶって眠り続けた。
かつて、清々しい風が通る、日向ぼっこに最適だったお気に入りの縁側には、
着るあてのない服がかけられたハンガーラックが、光を遮っていた。
コンビニに煙草を買いに出ること以外に、「仕事」はなかった。
そればかりか、何者かによって、車に傷をつけられるという「不運」に見舞われた。
収入がないことを「元妻」に責められるからと、
最愛の息子に会いに行くこともできなくなった。
間違いなく、弟にとって「人生の底」だった。
無邪気で明るかった母も、弟の「不運」に寄り添ううちに、次第に笑顔が消えていった。
お腹がよじれるほどに笑い合った母との二人暮らしを、私は懐かしんだ。
弟の「心の闇」が家の中全体を覆いつくしていた。
■「今世の課題」という”血縁”
「血縁」という繋がりがなければ、およそ関わることのない、私の周りには存在しないタイプの人間が、弟だった。
「血縁」で結ばれた親、兄弟姉妹との関わりは、
私たちに「最も大切なこと」を教えてくれる。
それが『今世の課題』なのだろうか。
そう思わされるほどに、「弟へのこころの処し方」は、私にとって難問だった。
弟の「霊体」は、暗くて黒くて重かった。
弟に想いを寄せるだけで、気持ちが沈んだ。
”とても同じ家に住むことはできない。”
自分の本心を認めざるを得なかった。
■弟からの「攻撃」
「宇宙の法則」は、自分が対したように、相手も同じように対する。
弟は私を非難し、嘲笑し、無視し、怒りをぶつけた。
それは、私がスピリチュアルな生き方を歩み始めた二十代のころからそうであったが、とりわけ実家に戻った二年前からは、一層攻撃された。
「戻ってくるな!」
「帰れ!」
私はどうしようもなく落ちこんだ。
そして悲しくてたまらなかった。
弟に嫌われたからというよりも、「実家での母との暮らし」を妨害されていることがつらくてたまらなかった。
「物忘れ」と時折「妄想」が見られるようになっていた母は、「反論できないほどに叱られる」ことに怯えていたし、機嫌が悪くならないようにいつも気を配っていた。
涙を流すこともあった。
兄たちにいじめられてきたように、息子からも蔑(さげす)まされた。
それでも母は必死に息子に仕えていた。
畑や田んぼ仕事には全く興味を持てず、家族や親族を蔑み、土地の人々との関わり合いを避けた。
■癒されない感情
弟は、自分自身を愛せずにいた。
周囲に当たる「怒り」は自分に対する「怒り」だった。
その「怒り」のもっと奥深いところに「悲しみ」があった。
弟は自分でもどうすることもできない「癒されない感情」に翻弄されていた。
夫婦関係にも影響があったに違いない。
幼少のころからの「心の闇」が、同じような「未来の現実」を引き寄せる。
このような結末を予想したくはなかったが、”闇”の中に身を置いている以上、
けっして「本当の幸せ」に辿り着くことはできない。
私は弟から、それが「事実」であったということを学ぶことができた。
「幸せを引き寄せ」ていくには、”闇”から「光の世界」へ、歩みを進めていかなければならない。
弟にその「勇気」を与えてくださるよう、私は神に祈らずにはいられなかった。
■運命の出会い
今年の五月に帰省した時、私はあるものに目が釘付けになった。
「二十年前のジャム」だった。
『第一章』の時に、「封が空いていない」=「まだ大丈夫」という我が家の判定基準を潜り抜けた「幸運」なジャムだった。
その時からさらに十年以上が経過している。
私はそのジャムに、大きな興奮を覚えた。
そして、”もしかしたら物凄いことになっているかもしれない!”
私の胸は高鳴った。
恐る恐る口に入れると、からだ中に電流が走った。
予想した通りだった。
芳醇な香りと深みのある味わいに、全身が熱くなった、と同時に、
私は一瞬にして、自分の「青写真(ブループリント)」を見た。
”このジャムだ!”
”熟成させたジャムをつくる!”
私はこころに決めた。
■忘れられていた「宝物」
我が家からでなければ生まれてこなかった「二十年熟成のジャム」
このジャムは、「忘れられていた」からこそ、生まれた。
「宝物」は我が家にあった!
時間にゆだねてそのままにしておくだけで、驚くほどのおいしさ!
このジャムこそ、「母の暮らし」に寄り添っていた。
母の元で、生き続けていたのだ。
「忘れていた」のではない。
母は、このジャムを「熟成」させていたのだ。
二十年というもの間、「まったく干渉しない」ようにして。
”忍耐強く何かを自分の力でつくりだそうとする”よりも、
いっそのこと”忘れてしまって”いた方が、
自然の不思議な力によって、思いもよらないすばらしい結果を生み出す。
「二十年前のジャム」には、そういった「宇宙からのメッセージ」が込められている。
■いちじくの木の前
「内側の自分」と「外側の自分」が、そのとき一つに重なり合った。
”生まれる前からの約束”と”母との生活”、
そして”私が探し続けてきた「本当の自分の使命」”・・・
それらが一つの線の上に重なっているような気がした。
私は今、「アルケミスト」の少年が辿り着いた、一本の大きないちじくの木の前にいるのかもしれない。
降って湧いたような 「宝物」との邂逅。
そこには「宇宙の大きな真理」が隠されていた。
私にしか伝わらないかもしれない「宇宙のひみつ」を、
神様はこっそりと教えてくれた。
その”演出”に感銘を受けると同時に、重要なメッセージに責任を感じた。
「このメッセージを人類に伝えよう!」
私はこのジャムで、多くの人びとの”生命(いのち)”が蘇るような気がした。
全身に電流が走った、あの感覚。
からだ中が熱くなって、”生き還る”ような感覚・・・
「きっと、たくさんの人を助けることができる!」
私は”生き還った”人びとの顔を思い浮かべながら、
喜びを静かにかみしめた。
■ゆずの樹のオーナーになる
五月の帰省を終えて、
私は具体的な計画を練り始めた。
高知県の無農薬ゆず農家さんのゆず山に育つ、一本のゆずの樹のオーナーになった。
「よし、作り方はここで教わろう。」
「次は、実家に居場所をつくらなくては・・・」
二度めに家を出て以来、見てみぬふりをしてきた実家の片づけに、
ようやく取りかかれる時がやってきた。
次の帰省は、少し長めに時間を取って、本格的に片づけようと思った。
■思いがけない「壁」
お盆が近づいた頃、母に電話した。
「家で少しゆっくりしようかな、と思ってな。
探し物、一緒に探そう?」
”片づけ”に警戒心をもっている母には、なるべく譲歩した物のいい方をした。
「息子は、帰ってこんでもええ、ゆうとる。
あきらめなさい。
帰らんでええ。」
目の前が真っ暗になるのを感じた。
弟は、私の行動力を警戒していた。
家を整えて、”人を招く”ことに猛烈に反対された。
人目を避けるようにして生きている弟にとって、
私は妨害者だった。
「人生の底」で苦しんでいる弟にとって、
私が「夢と希望」に満ち溢れていることが、
一層、みずからの不甲斐なさを実感させてしまうのかもしれない。
”起き上がり小法師”のように倒れてもすぐ起き上がる私に、
「劣等感」を感じたのかもしれない。
理由は何であれ、弟は頑なに私を拒絶した。
それは今に始まったことではなく、積年の”恨み”や”怒り”が一気に流れ出しているようだった。
その湧き上がる”感情”を、弟は適切な言葉で表現できないでいた。
その代りに、うんざりした態度で、私との対話を避けた。
それはおそらく夫婦関係が冷え切ってしまった時からだったのかもしれない。
■弟の叫び
ある時、弟は火を吐くように私にこう言った。
「姉らしいことを何もせずに!」
私は黙って受け止めるしかなかった。
本当のことだった。
それは、『これまでの人生でお前に助けを求めたくても、求められなかった!』
という意味だと、自分なりに解釈した。
自らの不幸の一端を、私が担っていると言わんばかりだった。
私は黙って受け止めた。
そして心の中で詫びた。
感情を吐き出すことで、弟は無意識に、私に何かを訴えていた。
それは「悲しみ」に違いなかった。
私は弟の境遇に同情した。
しかし誰よりも弟本人が、自己嫌悪に陥っていただろう。
■自虐的な言葉
「この辺にはろくなものしか残っとらんけん。」
買い物に出かける時の車中で、弟は言った。
弟は自分自身を「ろくなもの」と認めている。
「頭のええもんは、みんな出とる。」
弟は続けた。
やるせない空気が車中に漂った。
母も私も口を開かなかった。
私は”そんなことはない”と反論したかったが、やめた。
そんな自虐的な言葉が口をついて出てしまう弟が、哀れでならなかった。
■潮目が変わるのを待つ
母に帰省を拒絶された私は、
「わかった。」
と言って電話を切った。
私も母も、弟の感情を逆なでしないよう気を配っていた。
母は精神的に疲弊していた。
「無理はしないほうがいい。」
私は潮目が変わるのを待つことにした。
”どうしたらいいのだろうか・・・”
私は酷く落ち込んだ。
”このまま時間に任せるしかないのか・・・”
啓示のように受けた「未来の青写真」。
ゆく手には早くも大きな壁が立ちはだかった。
私は暗澹たる思いだった。
けれども、その時の私は「夢が前に進まないことへのジレンマ」しかなかった。
今にして思えば、その「自分の夢」だけを優先させようとしたことが、
家族の感情的な反発を招いたんだと思う。
私は大切なことに気づかないでいた。
神様は私に「この試練の答え」を自分で探し出すことなしに、前に進めないようにしたのだ。
■「瞑想合宿」
ふと、以前偶然知った「瞑想合宿」のことを思い出した。
スケジュールを調べてみると、四日後に次の合宿が始まるという。
「間に合う!」
私は運命に導かれているのを感じた。
すぐに申し込んだが、既に定員に達していたため、キャンセル待ちとなった。
私は落ち着きを取り戻した。
「この瞑想合宿で何かが変わるかもしれない・・・」
私は一縷の希望を感じていた。
あの「啓示」は間違いなく神様からのメッセージだ。
だが、そう易々と物事は前にはすすめない。
「家族の問題を紐解かなければ、この”ミッション”を果たすことができない。」
私はそう、解釈した。
その「瞑想合宿」を知ることとなったいきさつも、「神がかり」的なものだった。
■ある男性の「体験談」
今年の春ごろ、私は良くいくお気に入りのオーガニックレストランにいた。
隣の席では男性が女性に、「驚くべき体験」を熱く語っていた。
「からだが、とにかくグニャグニャになったんです。
目の見えなかった人が見えるようになってました。
合宿の後、物凄い人から仕事のオファーがありまして・・・
いやー、潜在意識が変わるだけで現実が変わることを実感してるんです。
食事も、こんな感じでおいしいし、
しかも合宿の費用、いくらだと思います?
タダ!
無料なんです!」
男性は余程その合宿から得るものが大きかったのだろう。
熱心に目の前の女性に向かって、店内に響き渡るくらい大きな声で訴えかけていた。
隣に座っている私の耳には、聴くまいと思っても耳に入る。
聴く耳を立てていたわけではないが、私はその男性の話に引き込まれた。
「理学療法士なんです。」
男性が名刺を差し出していたのを、私は視界の片隅にとらえていた。
彼らが席を立ってから、私は忘れないうちに、その瞑想合宿の名称と場所をノートに記した。
千葉・・・
”なんだか凄いところがあるんだなあ・・”
私は施術家のその男性が体験した「からだの変化」と、
「驚くような現実の変化」に興味を持った。
自己流ではあったが、私は日ごろから「瞑想」に親しんでいた。
特に体調が悪い時に、あらゆるエネルギーを駆使して「自己ヒーリング」を実践してきた。
「瞑想」と「自己ヒーリング」の違いはうまく説明できないが、似たものだと思う。
”いつかちゃんと「瞑想」というものを勉強してみたいな・・”
そんなことを思うようになっていた私は、男性の言っていた「瞑想合宿」に何か運命的なものを感じた。
行ってみろと言われているような気がした。
しかしその時はまだ、切実に「行く理由」がなかった。
■「現実」を「変える」ためにできることはまず「自分を変えること」
家族に帰省を拒否された時、
問題の”根”は、「深い」と感じた。
私は自分の無力さを感じた。
「もう前に進めない・・・」
私は暗闇の中にいるようだった。
自分の「限界」を感じていた。
「現実」を「変える」ためにできることは、まず「自分を変える」ことだ。
私は、この「瞑想合宿」に飛び込んでみよう!と思った。
「何かが変わるかもしれない・・・」
ようやく「どうしても行かなければならない理由」がはっきりした。
”表面化した「家族間」、とくに「弟との軋轢」を超えてゆきたい。”
私だけの問題ではなく、人類共通の普遍的な問題として、
自分の身に降りかかっている「課題」を解決したい、と切実に願った。
「どんなことがあっても、この山を越える!」
私はこの問題に集中し、コミットした。
■「瞑想の深み」を味わおう
「よ~し!思いっきり瞑想を愉しんでみよう~!」
深刻に悩んだからと言って、物事が解決するわけでもない。
私は気持ちを切り替えて、「瞑想の深み」を味わってみようと思った。
確かに私は酷く沈んでいたが、その一方で「うまくいかないことにも意味がある。」と思った。
全ては私の「成長」のためにある。
《うまくいかないこと》×《瞑想合宿》= 何かおもしろいこと!
もしかしたら、そんな結果になるかもしれない。
私は楽しくてたまらなくなった。
■「時間」が必要な時
”キャンセル待ち”にはなったものの、
「瞑想合宿」に申し込んだことで、私は精神的な落ち着きを取り戻した。
そして、「すべてがうまく行くような気」がしていた。
それがすぐに「行く」か、何年もかかるのか、それはわからないが、
「時間」がかかったとしても、「ものごとは、うまく行く方に流れる」のだ。
そんな風に考えた。
ものごとには「時間」が必要なことがある。
そんな時に、どんな「心もち」でいるのか、
それが大切なのだ。
■願いが叶う
その朝、私はいつものようゆっくりとフルーツを食べ、
”縫物”の準備に取りかかっていた。
ふいに、着信があった。
瞑想合宿の担当者の方から、「当日のキャンセルが出たので、参加しませんか?」
という連絡だった。
私の願いは叶えられた。
**過去記事参照**
kazenokomoriuta.hatenablog.com
■「変化」
「たまには親子三人でゆっくり過ごしてもいいね。」
瞑想合宿から戻ると、電話口の母の声が心なしかやさしかった。
少し前に弟とそんな会話をしたのだという。
弟は「そうだな。」と言って、母の提案に同意したらしい。
そんな話を私に聞かせる母は、とても嬉しそうだった。
私は半信半疑だった。
それでも「何かが変化した」ことを実感した。
■「透明」体験
「変化」は私の中に起こっていた。
瞑想合宿で、私は自分のからだが「透明」になるのを体験した。
お腹に「小川」が流れ、「風」がそよそよとからだを通り抜ける。
「なーんだ、私は、もともと透明だったんじゃないかー!」
私は驚くと同時に、拍子抜けした。
物事は思いのほか、単純にできている。
「自然」と私は、まったく同じ一つの「理(ことわり)」の中に共存している。
固く強張った「肺」が、良く伸びる柔らかなガムのように、自然の空気を吸っては吐き出す。
しだいに「肺」の存在はなくなり、あるのはただ「やわらかな空気」しかないことに気づく。
例えばそこに「暗く、重たく、冷たい」意識があったとしても、
暫くすると「大宇宙の浄化作用」で、消えてなくなる。
物事が、「暗く、重たく、冷たい」ままで居続けることのほうが難しい。
すべては心地よい方向に流れていくのだ。
「明るく、軽く、温かい」方に・・・
おそらく、私が「壁」のように感じている「現実」も、
何事もなかったかのように、”心地よい”方向に流れていくに違いない。
私は喜びで、からだが軽くなるのを感じた。
”鳥が飛べるんだから、私も飛べるはず”
私は自分が「光の存在」だったということも思い出した。
「沈んで」いた自分が嘘のように、「輝き」を取り戻していた。
■動き始めた「現実」
母との電話を終えると、私は直ちに行動に移した。
早速、実家にインターネット回線を引く手配を済ませ、
中古のデスクトップパソコンの本体を注文した。
小さな一角でも、活動の拠点をつくる!
後は生活をしながら、少しずづ「居場所」を広げていけばいい。
物事は心地よい方向に流れていくのだから・・・
私が「変わる」ことで、現実が動き始めた。
■サンキャッチャーになれ!
窓辺の日差しを吸収した「サンキャッチャー」は、「美しい虹」を部屋ぜんたいに映し出す。
光り輝くまぶしい日差しも、「石」にぶつかれば、「黒い影」ができる。
太陽からの日差しはまったく同じでも、「何が」吸収するかによって、映し出されるものは「天と地」ほどの違いが生まれる。
私は「瞑想合宿」で、何か「とても大切なこと」に気づかされた。
それは私の中の「聖典」に、しっかりと刻み込まれた。
”サンキャッチャーになれ!”
これからの人生にどんなことがあっても、私はこの言葉に還ろう。
”この言葉が私を救ってくれる!”
私は、もう何があっても大丈夫だと思った。
■終わった・・・
一か月におよぶ片づけを終え、私はゆっくりと家の中を見渡した。
窓を開け、風を通し、ちょうどいい位置に落ち着いた馴染みのソファーに体を横たえた。
窓の外から鳥のさえずりが聞こえてくる。
陽だまりが全身をやさしく包んだ。
「終わった・・・!」
■「神さまとの共同作業」
私は成し遂げた。
容易ではなかった。
だけど不思議なことに、まったく疲れなかった。
片付けの最中、私は終始ごきげんだった。
実家を整え、自分の居場所をつくれることが嬉しくてたまらなかった。
『第一章』のときと違っていたのは、まったくイライラしたり怒りの感情が湧いてきたりしなかったことだ。
私の中には、あらゆるものを「在りのまま」に受け止めようという「度量」が育っていた。
「在りのまま」に家の中を受け止めると、母も弟も「変わり」始めた。
母は私の「助手」役に回ってくれた。
途中まで静観していた弟も、いつの間にか自分の片づけを始めた。
南米のジャングルに道を通していくような、途方もない作業に最後まで集中できたのは、この「片づけ」が「神様との共同作業」であるという何か確信めいたものがあったからだ。
「神さまもこの片づけを待っていたんだな。」
そう思った。
■「祝福の儀式」
私は厳かな面持ちで、ホワイトセージに火をつけた。
暫く燃やして勢いよく腕を振り炎を消すと、スーッと一本の煙が天高く立ち上る。
ほのかに甘い枯草の薫りだ。
私は鼻の穴を開けて、胸いっぱいに匂いを嗅いだ。
「あー、いい薫り・・・」
時間が止まり、大地の深いところと一瞬にして繋がった気がした。
ネイティブアメリカンが儀式で使ったと言われる”ホワイトセージ”で、
私は片づけ終わった家の隅々まで「スマッジング」した。
それは、私自身と「家」を浄化する、「祝福の儀式」だった。
「無事に終えることができました。
ありがとうございました!」
私はこころの中で呟いた。
自分の力だけで、ここまで片づけることはできなかった。
私は見えない「導き手」にこころから感謝した。
■「新天地」
東京に戻り、暫くして弟が家を出た。
「新天地」が見つかった。
母は、持病のくすりが一つ減った。
私は「高尾山」に何度も登りながら、これからのことに思いを馳せている。
■「片づけ」を仕事にする
「私、『片づけ』を仕事にする!」
母にそういうと、母は、
「そうしなさい。」
と言った。
片づけ終わった後、私たちが交わした言葉だった。
母も弟も、「片づけ」の「成果」を認めてくれた。
何よりも私は、この「大仕事」をこころから愉しんだ。
「現実」を思いもよらない「素敵な空間」に造り変えていくことの面白さを、満喫することができた。
■片づけの「効果」
そして「片づけ」の驚くべき「効果」を身をもって知った。
それは、「変化」を引き寄せる見えない力がある、ということ。
そして、そこに住む人の「運気」を高める効果がある、ということだ。
その波及効果は、個人から家庭、社会にまで影響を与えることができる。
■片づけを「成功」させる鍵
更に、「片づけ」を成功させられるか否かは、以下の二つの点に集約される。
第一に、「片づけて何をしたいかが、はっきりしている」
第二に、「片づけの成功を信じて、最後まで集中する」
このことに尽きるのではないだろうか?
■大自然からの「愛情」
東の空いちめんを染めた「オレンジ色の朝日」が、私に同意してくれた。
眩いばかりの光で私を包み込み、「一か月の労」をねぎらってくれた。
それはまるで、大自然からの惜しみない「愛情表現」だった。
誰が私を受け入れることができなかろうとも、私には「太陽」がある。
私のために、私「だけ」のために、その朝の太陽は私を照らした。
雲に隠れるまでの数分間、私は「オレンジ色の朝日」を独り占めした。
この体験を、私は忘れることはないだろう。
■「奇跡」が起こるとき
「宇宙」は、はっきりとした「意志」をもって、人類と共に何かを成そうとしている。
「宇宙」と「人類」の「意志」が一つになったとき、「予想もしなかった全くあたらしい現実」を引き寄せる。
それを「奇跡」と呼んでもいいかもしれないが、
私たちの人生も、人類の歴史も、「宇宙」と「意志」を一つにしたときに「動く」。
私の「片づけ」は間違いなく、「宇宙」が共にあった。
その先にあるのが、私の「本当の仕事」だ。
「なんだか、たのしくなってきた!」
小春日和の眩しい日差しを受けて、サンキャッチャーが虹を部屋中に放った!
私は手のひらにその「虹」を映し、いつまでも眺め続けた。
**「シンプルで巡りのよい」”暮らしの提案”をしています**
更新情報・お知らせ - 労り学級 いのかしらスローセラピーの会 ヒーリング・タッチ 「風の子守詩」 風のおしえ